久万郷

久万郷とは

「久万郷(くまごう)」というのは、久万高原町の地域、仁淀川上流域一帯あたりのことを指す愛称です。

「久万郷」の他に「久万山(くまやま)」と呼ばれたりもするようです。

その久万高原町というのは、愛媛県中央部に位置する町です。

面積は愛媛県内の市町村の中で最大です。

「くま」という言葉は、昔から、「山の奥」「山と山にはさまれた土地」といった意味で使われていたようです。

2004年に実施された平成の大合併の際に、4町村が合併されて、「久万」に「高原」を付して「久万高原町」となったのです。

 

久万郷の位置について

久万郷は、松山市から三坂峠を越えた南の地域の事を指します。仁淀川上流域に該当します。

北は、三坂峠をはさんで松山市と、皿ケ峰連峰をへだてて東温市、石鎚連山を境として西条市に接しています。

西は、砥部町、内子町、西予市と山々で接しています。

南と東は高知県に接しています。

 

久万郷の地形について

久万郷の地形は、仁淀川上流域であることもあり森林が大半を占めています。

そして渓谷に沿って集落が点在しています。

 

久万郷の気象について

標高1000mを超える四国山地に囲まれた町なので、四国では比較的冷涼な気候です。

そのような冷涼な気候なので、「四国の軽井沢」と呼ばれたりすることもあります。

この冷涼な気候を生かして、トマトなど高原野菜の栽培や、林檎などの観光農園などの取り組みが行われています。

また、ラグビーなどのスポーツ合宿を誘致したりもしています。

降水量が多い地域でもあり、冬には積雪がみられることもあります。

 

久万郷の産業・林業について

久万郷は森林地帯なので、以前は林業が盛んだったが、外材の流入や木材価格の低迷などの要因によって、現在は全く芳しくない状態に陥っている。

間伐等の作業を受託する第3セクターである「いぶき」を他の地域に先駆けて設立、活用していて、何とか林業を再興させようとしている。

 

久万郷の観光・名所・見どころについて

四国カルスト

四国カルストは、愛媛県と高知県の境にあるカルスト台地のことです。

標高は約1,400メートルあり、東西の幅は約25kmと言われています。

山口県の秋吉台、福岡県の平尾台とともに日本三大カルストと呼ばれています。

大野ヶ原、姫鶴平、五段高原、天狗高原まで、なだらかな山肌には、夏は緑の草原、秋はススキが一面に広がり、一年を通して四季を楽しむことができる名所なのです。

そして浸食作用で地表に露出した石灰岩が点在していることも魅力のひとつです。

乳牛の放牧地帯としても有名で、たくさんの牛が放牧されていて、カルスト特有の風景をさらに牧歌的にしているのです。

そういった面からも多くの人々が訪れる観光地となっていて、愛媛県では1964年から「四国カルスト県立自然公園」として指定されています。

 

海岸山岩屋寺

奇峰が天を突き、巨岩の中腹に埋め込まれるように堂宇がたたずむ典型的な山岳霊場が岩屋寺なのです。標高は700m。

神仙境をおもわせる境内は、昔から沢山の修験者が修行の場としていたのです。故にさまざまな伝承が残っています。

弘法大師がこの霊地を訪ねたのは弘仁6年と言われています。

弘法大師がこの地を訪れた事には、すでに土佐の女性が岩窟に籠るなどして、法華三昧を成就し、空中を自在に飛行できる神通力を身につけており、法華仙人と称していたという逸話も残っているようです。

仙人は、大師の修法に篤く帰依して、全山を献上したようです。

大師は木造と石造の不動明王像を刻み、木像は本尊として本堂に安置し、石像を奥の院の秘仏として岩窟に祀り、全山をご本尊の不動明王として護摩修法をなされたとのことです。

また、一遍上人が鎌倉時代の中期にこの古刹で参籠・修行したことは、「一遍聖絵」にも描かれています。

13世紀末ごろまでにはこれらの不動尊像をはじめ、「護摩炉壇」「仙人堂」「49院の岩屋」「33の霊窟」などがそのまま残っていたと伝えられているのです。

1898年に仁王門と虚空蔵堂を残し、諸史料とともに全山を焼失してしまいました。

それから大正9年に本堂より一回り大きい大師堂を再建し、その後、昭和2年に本堂、昭和9年には山門が再建されました。

さらには昭和27年には鐘楼を復興し、宿坊遍照閣(昭和38年)、逼割不動堂・白山権現堂(昭和53年)がそれぞれ建立されました。

大師堂は国指定重要文化財、寺域は国の名勝、県立自然公園の指定地でもあるのです。

 

大寶寺

大寶寺は標高490mの高原にあって、境内は老樹が林立しており、幽寂な空気が漂う空間なのです。

四国霊場八十八ヶ所のちょうど半分に当たり、「中札所」と言われています。

四十三番明石寺からの道のりは約80kmで、峠越えの難所が続き、歩けば20時間を超えるほどの「遍路ころがし」の霊場だと表現されます。

縁起は「大和朝廷の時代」まで遡ります。

百済から来朝した聖僧が、携えてきた十一面観音像をこの山中に安置していたようなのです。

飛鳥時代になって大宝元年のこと、広島の安芸からきた狩人が、菅草の中にあった十一面観音像を見つけ、草庵を結んでこの尊像を祀ったと言われています。

文武天皇はこの奏上を聞き、さっそく勅命を出して寺院を建立したようです。

そして元号にちなんで「大寶寺」と号し、創建されました。

弘法大師がこの地を訪れたのは、それから約120年後で弘仁13年、密教を修法されて、四国霊場の中札所と定め、これを機に天台宗だった宗派を真言宗に改めたのです。

仁平2年、全山を焼失してしまいます。

しかし、直後に後白河天皇が病気平癒を祈願して成就され、ここに伽藍を再建し、勅使を遣わして妹宮を住職に任じて勅願寺としたのです。

このときに「菅生山」の勅額を賜り、七堂伽藍の僧堂を備えて、盛時には山内に48坊を数えるほどであったと言われています。

その後「天正の兵火」で再び焼失してしまいます。

松山藩主の寄進で復興し、江戸中期には松平家の祈願所にもなったのですが、明治7年には3度目の全焼となってしまいます。

 

御三戸嶽

御三戸嶽は、面河川と久万川の合流点にあって、水中から突出した岩は別名「軍艦岩」とも呼ばれています。

夏には周辺の河川敷でキャンプをする観光客で賑わっています。

面河川と久万川の合流地点にそびえ立つ高さ約40mの絶壁は、まさに自然が生んだ芸術品と言えるでしょう。

岩肌には老松が生い茂っています。

 

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